5 新しい人生

驚いた事に、雄輝が入院してから2週間という時間が過ぎていた。
つい先日病院へと搬送されてそして起きてみれば女の身体になっていたのだから、一晩眠っていたと思うのが普通である。もちろん、2週間近く意識がなかったという事を材料に仮設病院の医師達に文句を言うのもあたりまえのような光景となっていた。
そして何より考えなければならない事は、時間は無情にも常に一定の方向へと動いていくという事だった。そう、いつしか病院での生活は終わりを告げて、女性の身体のまま社会へと放り出される時が来る。その責任を誰かに問うて、なんとかなるのなら叫んだり喚いたりもするものだが、時間と同様に、叫び声も喚き声も、ただ響くだけのものだった。
女性の身体になるということ、それは自分を捨てるという事を意味していた。それまで築き上げてきた人生という積み木が崩れ去って、別の形で突然誕生しているのだ。そしてそれは当人だけでなく、周囲の人間にとっての積み木でもある。
一人の人間がこの世から消えて、別の人間がこの世に誕生する、それはどういう意味か。
雄輝と同じ病室にいた元男性は携帯で恋人らしき女性を呼んでいた。何度も何度も、自分が元男性である事、つまり、彼の恋人である事を携帯越しに説明する。なんなら医者にも証明してもらうから、などと付け足しながら。
15分ぐらい経ってから、病室に女性が現れる。
誰かを探している。もちろん、見つかるはずもない。そこに居るのは女性へと姿が変わった元男性ばかりなのだから。だから、少しでもその恋人と思われる女性に不安な気持ちを起こさせないために「ここだよ」と手を上げて名乗りあげる。そして女性は驚いてその場に立ち尽くし、口を手で覆って、しばらくそのまま動かない。
もはやそれもありふれた光景となっていた。誰もが驚く。少し前まで男性だったものが、今、目の前に女性として存在しているのだから。そしてゲイやニューハーフのそれとは違って完全に女性となっていて、かなしいかな元の面影などないのだから。
目の前の女性が自分の恋人と記憶を共有してるのかというぐらいにペラペラと、恋人しか知りえない事を話す。それが彼なりの自分という証明でもあったが、それは残酷な現実をより確かにする事も意味していた。時折、そのカップルは会話が途切れて無言の時間が訪れる。そしてしばらく話すがまた同じように無言の時間が来る。それを何度か繰り返す。
殆どの患者に同じように起きる事だ。
たとえ、血の繋がった家族であっても同じだった。
雄輝の元にも家族がやってきた。父親と母親だ。
父親が男でいた事に雄輝は少しだけ安心いた。雄輝と同じくウイルスに感染したが、高齢な為か細胞が置き換わる事がなく男のままでいた。だがそれに安心する一方で、母親の自分に対してどう思うのかが気になっていた。今まで息子だったものが娘に変わったのだ。そして以前の面影は殆どない。たとえ心が息子であっても、肉体はこの世には存在していないのだ。
「病院はどうだった?よく寝れた?」
目の前の見たことのない女性に向かって『母親らしい事』を言う姿は、雄輝の目には苦しく写った。どう答えていいか迷ったが、やはり自分として、つまり男であった時の自分が言うのと同じように答えるのがいいだろうと考えた。
「うん…まぁ、ずっと寝てた。2週間ぐらい」
それは何気ない会話だった。二人の事情を知らぬものが聞いたのなら、普通の親子の会話だと思うだろう。だが、母親からしてみれば姿だけでなく声もまったく違うのだ。ニュースでは散々その事が言われて、そして病院の医師からも何度も説明をされていたが、実際に会って見て話す事で心の動揺は隠せないものとなった。
それから家に帰って夕食となった。
せっかく退院したのだからとどこかへ食べに行こうかと母親は提案したが、父親はそれを却下した。どのみち戒厳令が敷かれているし、なによりいつものように夕食を食べたかったからだろう。
いつもと同じ夕食の時間。違うのは雄輝が女になっている事ぐらいだ。服が合うものがないので男性の時のパジャマを着ている。身体が一回りも二回りも小さくなったからか、パジャマはぶかぶかになっている。唯一違うのはそれだけだ。
何度か息子と話すうちに、母親はそれが「やはり自分の息子なんだ」と確信を持ち始めた。姿や形が変わっても、根本的には変わらない。だからそこにはいつもの夕食の時間があったのだ。
そして雄輝も、母親や父親が自分を息子だと認識してくれた事に気付いて、そして感謝した。それは『否定された人間』を病院で何人も見てきたからだ。