7 安らぎの世界

1

医者は電脳のマップを診ながら夏美の両親に病状を説明している。そもそも、夏美は自ら腕を切ったのだから、そこに電脳のマップが存在するのは奇妙な話だった。
「腕のほうの応急処置は終わりました。傷は深くて筋肉も傷つけていましたよ。娘さんはリストカットをしていた形跡が無かったです。本当に死ぬつもりで切ったのでしょう。もう少し発見が遅かったら出血死していたところでしたよ」
その言葉に対して「そうなんですか」などの声すら返せない。まるで医者は夏美の自殺の責任を両親へと向けているようにも思えたからだ。
「身体のほうの傷は実は大したことはないんです。それよりも精神に負っている傷が大きい。最近の医療技術では電脳の状態から精神病についても細かく解るようになっているんです。娘さんは極度のストレス障害ですね」
医者はそういうといくつかキーボードを叩いて見せて電脳マップの表示を切り替えている。
「普通、うつ病の状態ではやる気が起きなくなってしまいますが、夏美さんの場合、そもそも行動的なのでしょう。それが災いして死ぬ事に意欲が出てしまっています。今の状況から逃げ出したいと思う一心に、自殺を図ったのだと思います。何か最近変わったことなどはありましたか?自殺の前に見られるような兆候があったとか?」
「…学校に行きたくないと」
「イジメがあったのですか?」
「学校に問い合わせたのですが…そのような事は無いといわれました」
「精神科の専門医をご紹介しましょう」
医者はてきぱきと自分の仕事をこなして、招待状を両親へと手渡した。いくつ同じ事例を扱ってきたのだろうか。あまりにも手際よく診断を終わらせる。確かに、時間は深夜の1時を過ぎている。叩き起こされて不機嫌のような雰囲気もあった。

2

車から夏美を降ろして、その病院のロビーへと向かう。「西川精神病院」という文字が夏美の目に飛び込んでくる。それは夏美の腕を治療した医者が紹介状を書いた病院であった。
ロビーまで入って立ち止まる夏美。
「夏美?」
父親は手を引いて連れて行こうとするが、夏美はその手を払いのけた。
「家に帰りたい!」
「夏美!」
「私は病気じゃない!こんなところにはいかない!」
彼女の父親は、帰ろうとする夏美の右手を掴んで引っ張ろうとする。だが、その手が傷を負った手だという事を、夏美が痛みに顔をゆがめて初めて気付いた。
泣き出す夏美を父親は抱きしめた。
「すまない。すまない、気付いてやれなくて」
その台詞は彼女の右手を掴んでしまった事も、そして彼女がイジメにあっていた事も、全てを含んでいた。

3

部屋には父親だけが案内されていた。
担当医の女性は夏美の電脳マップや、問診の結果を見ながら言う。
「投薬による治療を行って、それからある程度回復してからは自分自身の力で何とかしてもらうという流れになっています。ただ…それは環境を変えるという大前提があるんですよ。娘さんは学校でイジメがあったと認めました。学校側からは何も?」
「問い合わせたのですが、何も」
「よくあること…ですね。イジメにあった生徒が一旦は治療を受けて、回復したと思われてまた学校に登校させ、再びイジメにあって自殺したケースもあります。環境を変えなければまた再発する可能性が高いです」
「転校…ですか」
「それがよろしいかと思われます。ただ、今の時点では、まだ回復したとはいえません。酷く人間不信に陥っているようですね」
「それは私や妻に対してもですか?」
「誰に対してもです。ストレス障害は投薬でなんとかなりますが、これに関しては何ともいえません。とくに今の思春期の時期だと、治療が難しいです。ただ…最近、治療として認められつつある方法があるのですが、試されてみますか?」
「どんな方法でしょう?」
「私もあまり詳しくはないのですが、ネットワークゲームをするという治療法です。現実の社会では人との関係は簡単には作れないのですが、ネットワークゲームでなら、環境を準備する事が容易いという理由からでしょう」
「ゲーム…?ですか」
「治療というよりも、心の育成というか…。中高生は学校という閉鎖された空間だけの人間関係を世界そのものだと思ってしまいがちなのですが、実際、社会に出れば、色々な人間に出会って本当の世界を知るはずなんですよ。それを心がまだ中途半端な時期に、ゲームという形で体験させる事で、人との関係を築く為の土台となる心の育成を築くのです。まだ実験段階なのですが、どうされます?」
「それで夏美の病状がよくなるのなら…是非」
「わかりました。では紹介状を書きますね」
医者はそう言うと、この精神科医を紹介される時にも見た、例の紹介状を書き始めた。夏美の父はまた別の医者を紹介されるものとばかり思っていたが、彼がスラスラと書いている内容を少し拝見すると以外にもそこには医者という肩書きではなく、『エレクトロニック・アーツ・インダストリー』という会社の名前が書かれてあった。

4

それから1週間ほどが経った。
夏美はあれ以来、部屋に引きこもったまま、時折トイレやシャワーの用事を済ます程度で殆どと言っていいほど顔を見せなくなっていた。
両親の脳裏には『人間不信』という医者に言われた言葉が浮かんでいた。明るかった頃の夏美の顔を思い浮かべては、自分の娘をこうも変化させた何かに対して、時折怒りが込み上げて仕事が手につかなくなる事すらあった。そして何故自分達の家族の関係が、その何かを理由に壊されなければならないのか、理不尽さに悲しくなる事すらあった。
その日、いつもの様に会社へと向かうために玄関へ居た夏美の父は、その外でトラックが止まる音を聞いた。そしてその足音は玄関へと近づいてきて、案の定、チャイムが鳴る。ちょうど家から出るところだ、と、玄関のドアを開ける。するとそこには作業服に身を包んだ男性が二人ほど、なにやら荷物を抱えて居る。その二人は自分達を『エレクトロニック・アーツ・インダストリー社のメンタルヘルス部門』と自己紹介し、ゲーム端末を設置する内容の説明をした。
(なるほど、あの精神科医が言っていたアレか)
仕事に遅れる事を会社に連絡した父親は、母親と一緒に夏美の部屋に向かう。
「夏美、前に話してたゲームを業者の人が持ってきたんだ。設置するからここ開けてもいいか?」
「…」
しばらく無言が続く。既に部屋の手前まで来ていたゲーム会社の作業員2名は顔を合わせて不思議がっている。このままここに居るわけにもいかないと、父親は強引に部屋に入ろうとする。だが、向こうから明らかに押し返されている感触がある。
「夏美、別に外に出ろって言ってるわけじゃないんだ。心を元気にするゲームを持ってきたんだ。ここを開けて」
「いや!」
「夏美!」
「私は病気じゃない!出ていって!出ていってよ!」
「別に夏美が病気だなんて言ってないだろ?」
「何ともないんだから、そんなゲームとかもいらない!…一人にさせて…一人にさせてよぉ…」
それから泣き崩れるような声が聞こえる。
力が緩まったからか、カギのついていないドアや易々と開いた。父親は泣いている夏美を抱きかかえた。そして困り顔をしていた作業員達に、そのまま設置の作業を続けて欲しいと目で合図した。
作業は一時間程度で終わった。
そして使用方法の説明を受ける父親。それから彼は夏美をベッドに寝かして、頭にヘッドギアのようなものを取り付ける。それがゲーム端末であった。
「既に視界にログオンの表示がされていると思いますので、そのままアカウント情報を設定してログオンしてください。最初に身体の感覚が消えて、聴覚、味覚、嗅覚、と感覚が消えていきます。最後に視覚が消えたら仮想空間にログオンします」
と、ゲーム会社の作業員は説明する。
だが説明の途中で既に夏美はログオンを始めていた。
仮想空間という世界、つまり現実とはかけ離れた世界というのが夏美の心に僅かだが期待を持たせたのだ。そこは自分が拒絶した今の世界と違うのだろうという、淡い望みがあったのだから。

5

最初に身体全身が麻酔でも打った時のように感覚が消えた。それから耳が聞こえなくなり、口も同様に麻痺した。そして臭いが無くなって、最後に暗闇が訪れた。だがそれは一瞬だった。
そう、一瞬だけ瞬きをした。その後に目の前には自分の部屋は無く、草原が広がっている。草の臭いがする。そして何かの鳥の鳴き声や風が草や木を触る音が聞こえる。それから身体が自由に動くようになり、地面に足をつけると柔らかい草の感触が足をくすぐる。
「何これ…?」
夏美は草原を見渡した。手前には川が流れていて、魚が泳いでるのが見える。背後には森があり、振り返ると鳥が一斉に空に向かって羽ばたいた。
「きれい…」
夏美は今までそんな光景を見たことが無かった。草原も見たことはあるし、魚が泳いでいる川も見たことはある。森も、鳥が羽ばたいている様子も、見たことはある。だが、それらがまるで映画の1シーンの様に、一番いい状態で目の同時に飛び込んでくる事は無かった。今がその1瞬だった。
「ここがゲームの中の世界?すごい!」
夏美は草原を走り降りた。そして川の中に足をつける。冷たい感触がする。そこがゲームの中の世界で本当は存在しておらず、そして何もかもが作られたものだという事が嘘に聞こえるほど、あまりにもその感覚は現実そのものだった。
川をバシャバシャと走り抜けて、また丘を登り、それから草原を走り、森を抜けて何か見たことのない動物の群れを遠目で眺めて、そしてまた草原を走り抜けて、花が沢山咲いている場所で寝転がる。それだけ走れば息が切れて呼吸が苦しくなるはずだが、殆ど息切れせずにただ楽しいだけの気持ちがある。そして何故か涙が零れた。
今まで夏美が泣くときは、辛いときや苦しいとき、そして悲しいときだけだった。だから今その瞬間に流れた涙が、そのどれかの時の涙なんだろうかと自問自答した。でも今は辛くもなく、苦しくもなければ、悲しくもない。どうしてそんな涙が流れるのかが不思議で笑い出した。
だが本当は夏美が一番その意味を知っていたのだ。今流した涙は、ただ目の前の景色に感動しただけ。ただそれだけの涙だった。