6 楽になりたい

1

ある日の朝。
夏美が登校してくると、彼女の靴を入れるロッカーだけが空いている。
「なんだろ?」
夏美が近づいてみてみると手紙が入っている。一瞬ラブレターなどを想像したが、夏美の高校は女子高だ。ラブレターという可能性はとても少ないとその想像を訂正した。
手紙が便箋に入れられるわけでもなく、二つに折られてロッカーに入っているだけだった。変化はそれだけではない。そこにあるはずの上履きが無いのだ。嫌な予感がして夏美はその手紙を広げると、マジックで書かれた大きな赤い文字が目に飛び込んできた。
『死ね、淫売!』
夏美の背筋を寒気が走り、そしてこのメッセージの主を想像する。その予測では、秋元と彼とつるんでいた夏美の高校の女子しか思い浮かばない。「バレていた」夏美の脳裏にはその言葉が浮かんだ。秋元は髪の色も元に戻して、ピアスも外した。それだけ本気だったが、彼は恋人と別れた、というのは彼がそう思っていただけなのかも知れない。と夏美は思った。そのメッセージが書かれた紙を恐る恐るとじて、学生カバンの中に入れる。そして上履き無しでふらふらと歩き始める夏美。
教室につくとさらに夏美の背筋が凍るような事が待っていた。
彼女の机の上には花瓶が置かれて、そして口紅で『淫売』と書かれてあった。クラスの女子達も何が起きているのか解らず、夏美の机の周囲に集まってただ驚いている。
その光景を見て思わず泣き出してしまう夏美。
ホームルームが始まる前に担任の教師が入ってきたが、泣いている夏美や花瓶の置かれた彼女の机と、その周囲に集まっているクラスメート達の光景を見て言う。
「どうして早川さんの机の上に花瓶が置いてあるの?誰がやったの?!」
「えと、わからないです。朝きたらこんなになってて」
担任は一瞬は、夏美の席の周囲に集まっているクラスメート達がやったのだと思い込んで、怒鳴るように問いただしたのだが、困惑するクラスメート達の表情を見て、犯人は彼女達ではない事を悟った。泣き崩れている夏美の下に歩いて別の異変にも気づく。
「早川さん、上履きは?」
泣きながら首を振る夏美。
「委員長、ホームルームを続けておいて」
担任はそう言うと雑巾を持ってきて夏美の席の上の口紅で書かれた罵倒文句を消す。夏美も一緒に自分の机の上を掃除した。
そして掃除後にクラスの全員に、この事を校長先生に報告するという事、それからやったものがクラスメートの中にいるのなら後でいいので名乗り出るように、と言った。

2

その日の放課後だった。
夏美が帰ろうとすると、上級生を含む隣のクラスの女子が数名、夏美に用事があると顔を覗かせている。
夏美は嫌な予感がした。
逃げ出そうとも思った夏美だが、誤解しているのかも知れないと、その誤解を解くために彼女達についていく事にしたのだった。
体育館の横にあるクラブ棟と呼ばれる建物のロッカールームだ。その日はテスト期間中で部活動は行われていない。その為か、普段なら大勢の運動部系の部員達が着替えているロッカールームには誰もいなかった。夏美と上級生を含む隣のクラスの女子を除いては。
隣のクラスの女子、とりわけ一番頭の茶色な不良風の女子が夏美の髪の毛を掴んでロッカーに叩きつける。
「淫売女!あんたが裕也を変えたんだ!人の男寝取りやがって!死ね!」
「ち、ちがう、寝取ってなんか」
再びロッカーに叩きつける。夏美の額は赤く腫れた。
「あんたが裕也と一緒にいたのは知ってんだよ!椎名さんが話してくれたよ」
夏美は身体から力が抜ける感覚がした。『椎名』夏美と常に行動を共にしていた『椎名理穂』だ。二人で自宅へと帰る途中に秋元が声を掛けたのだった。だが、それだけだった。理穂は夏美と秋元が一緒にいた事など知らないはずなのだ。
「二人でホテルに入ったのも見たってさ」
「そんな事してない!」
何もかもが信じられなかった。ロッカーに叩きつけられる痛みも十分に痛かった。だが、何より痛かったのが親友と思っていた者に裏切られた事だ。理穂はずっと夏美に嫉妬していた。夏美を傷つける事が出来るのならやり方はどんなでもよかったのだ。例え秋元と夏美が本当に付き合っていなかったとしても。
「お前みたいな人間の屑は死ねよ!」
それから夏美は何度かロッカーに打ちつけられた。
一人、ロッカールームの残った夏美は泣いた。

3

次の日。その日も、登校すると夏美の席には花瓶が置いてあった。そして口紅で机に罵倒文句が書かれてある。それがどんな事が書かれているのかはもう夏美は見ていない。ただ泣いて、涙で目の前が見えていなかった。
担任が雑巾でそれを拭いたが、完全には消えず、机の上には何かしらの字らしきものは残っている。担任は夏美だけに、犯人が解ったから、注意しておく。とだけ伝えた。それで夏美が今の状況から開放されるとは想像が出来なかったのだ。
ただ、今以上にイジメが酷くなる事だけは想像できた。
放課後にはまた呼び出された。
「先生にチクったろ!」と足蹴りをする。蹴ったところに靴の跡が残った。それをみて周囲は「汚い」と笑った。
イジメの発端は、その茶髪頭の女子だったが、その女子が復讐と称して夏美をいじめるのとは別で、周囲の人間は楽しくてやっているようだった。夏美がお腹を蹴られて、お腹を抱えて苦しそうに息をしている様をみて、大声を上げて笑う周囲の女子達。
その空間だけ、暴力と狂気が支配していた。
歯車は最初から狂っていたのだ。だが、あたかもそれはまともに動いているように見えていた。夏美と理穂の関係はずっと前から『本当の友達』では無かった。そう思っていたのは夏美だけで、理穂は夏美に対する嫉妬で既に友達という架空の関係で夏美と繋がっていたに過ぎない。彼女の友達という枠で居られれば、理穂にも男性と付き合うチャンスが巡ってくるだろうという、浅はかな考えが発端だった。今となればそれは歯車を狂わせるきっかけの一つでしかない。そして裕也と呼ばれている男と、茶髪の女子との関係も、夏美がこうなるずっと前から崩れ始めていた。
様々な捩れが、夏美に対するイジメという形で表面化していった。
勉強や部活が苦しくなったとしても続けられる。だが人間関係が苦しくなると意外にも脆く日常は崩れ去っていく。夏美が登校拒否をするまでに時間はそれほど必要ではなかった。

4

「夏美!どうしたの?学校遅刻するわよ」
部屋の外から母親の声がする。
夏美が寝始めたのは朝の6時頃だ。そして今が朝の7時。1時間ほどの睡眠時間で十分なはずもない。だが、眠りそして朝を迎えれば学校へ行かなければならない、その現実が夏美の頭の中で常にぐるぐると回って眠りを妨げる。
『学校へ行く』という行為がパブロフの犬の法則のように少しでも考えるだけで身体全体を恐怖が覆うのだ。毎朝のように無くなる下駄箱の靴、そして机の上においてある花瓶。口紅で書かれた罵倒文句。そして放課後にロッカールームへ呼び出されて暴力を振るわれ罵声を浴びせられる。これらの記憶全てが『学校へ行く』という言葉の中に定義されている。
ついに部屋に母親が入ってきた。
「どうしたの?熱でもあるの?」
母親は夏美の額に手を当てて前髪を除けて熱を測る。
「別に熱はないみたいね」
「いきたくない」
「え?」
「学校…行きたくない」
その日、夏美は初めて学校を休んだ。

5

それから何日かは学校を休み続けている。
夏美は平日の、学校の人間が出歩かない時間帯、昼間に、たまたま立ち寄った公園の傍にある教会に目が止まった。とても綺麗なつくりをして、よく手入れをされている教会だ。おそらく、色々な方面から寄付を受けて立派な教会を立てたのだろう。教会とは印象が少し異なるどこかの清掃を行う格好をした人が数名、花壇やらの手入れをしている。
案内板には今の時代では時代遅れの『紙』による掲示がされている。定期的に行われる集会やら子供達が集まって教会の為に何かをする、という内容のスケジュールがある。その中に、大きな文字で「神は全ての人々を救ってくださる」と書かれてある。
この文句は常に街のどこかにあって、それとなく目には入っていたものだが、普段から夏美はその文句は視界には入れども頭の中には入ってこなかった。日本という無信教者が集まる社会で、何かが自分を救ってくれる、または自分を救ってくれる何かがいると思う事などないのだ。だが、今の夏美にはその言葉が頭の中へと流れ込んでくる。
袋小路だった。
学校で彼女の居場所が無くなると登校拒否になった。そして街を歩く事すら苦痛になりつつある。全ての人間が敵に思えた。空気が彼女の周りにだけ無くなってしまい、そしてどこか呼吸が出来る場所を探している。そんな状況だった。
公園の隣にあった教会は、その建物の扉が入り口から随分と離れたところにあった。まるでわざと何かの映画の中のシーンに合わせるようにと小高い丘の上に作ったような、そんな配置になっている。周囲を気にしながら夏美はその小高い丘の上にある教会にたどり着く。手前にある大きな重い扉を押し開ける。
ひんやりとする。冷たい風が教会の中から外へと向かって流れてくる。普通に考えれば、薄暗く冷たいその場所が外よりも居心地が悪いだろう。だが、夏美にとっては周囲の目がないその場所はとても居心地がよかった。重い扉は夏美の後ろで閉まり周囲を静寂が訪れる。
外を流れていた風が教会のステンドグラスを揺らしていた。その音が夏美の頭の中に響き、額に作っているアザに痛みを響かせる。ロッカーに叩きつけられる夏美の額。そんな光景が一瞬頭の中を過ぎる。
(大丈夫、大丈夫、ここには何もいないから)
心を落ち着かせようとすると、まさにその通りに落ち着いてきた。
そして夏美は、その教会の宗派やら礼儀なども何もわからなかったが、ただテレビやどこかで見たのと同じように、冷たい床にも構わずスカートから伸びた両膝をそこへ揃えて何かの『神』へと祈りを捧げる。
「どうか私をここからお救いください」
その言葉を呪文の様に言い放つ。
夏美には解っていた。その教会の空間から1歩外へ歩み出せば、そこには自分が存在出来ないと思えるほどの息苦しい世界が広がっている事を。夏美が発したその言葉には何の効果も無い事も。解っているからこそ、言葉の虚しさが跳ね返ってきたのだ。
顔を地面に向けたままで、夏美は泣いた。

6

家に帰ってから、夏美は風呂へと向かった。手にはスーパーで買ってきた何かが入った袋をさげて。服を脱いでその袋の中から取り出す。
果物ナイフだった。
風呂の中へと入り、湯に浸かった。身体にちょうどいい暖かさが滲んでいく。天井を見上げて、それから目を瞑る。
「もう疲れたよ」
いつしか夏美の父親が言った。
「自殺するぐらいの勇気があればなんでも出来る」
それはあくまでも死にたくないと思っている人間の理論だった。
生きている事が苦痛だった。時間が経って何かが目の前におとずれる都度、恐怖で身体が強張っていく。自分にとって辛い出来事が過去にあって、そして未来にもそれが続くとすれば、それは深い海の中で呼吸が出来なくなる事と同じだった。
「楽になりたい」
夏美はまるで操られているかのように、左手で持っていた果物ナイフを右の手首に添えた。そしてグッと力を入れる。簡単には刺さらなかった。だが、痛みが一瞬全身を駆け巡った後に、スルスルとナイフが奥まで刺さった。
血が出ていく。それらが風呂のお湯の中に浸透していく。
みるみる赤く染まるお湯。夏美はその中で痛みがどんどん鈍感になっていく。いつしかゆっくりと身体に深い眠りが訪れた。

7

「夏美!」「夏美!」
叫んでいる声が聞こえる。
目を開けると、前には彼女の父親の姿があった。
「母さん!救急車!はやく!」
記憶は途切れ途切れになっていく。壊れた風呂の扉。それは父親が彼女を助けるために、鍵の掛かっていた扉を壊したものだった。そして抱きかかえられると、夏美の腕からは血がぼたぼたと廊下を濡らしていくのが見える。いつしかその廊下は家の廊下から道路に変わって、そして病院の廊下になっていった。
(私、まだ生きてる。どうして…)