16 恋人 - Lover 7

「とりあえず、その…自己紹介しません?」
竹下は震える声でそう言った。
それは一つの賭けだった。
もし相沢が竹下の事を知っているのなら、相沢は竹下という人物を一人の人間として認識している。それは別に気になる女性というわけでなくてもいい、ただ同じマンションに住む、一緒にマンションのお金さえ払えばやらなくてもよかった掃除当番をしたという「同じ記憶」を共有している人物。だが、もし彼が自己紹介をしたのなら、相沢にとっては竹下は横断歩道ですれ違った程度の人間関係。関係とすら呼べないのかもしれない。
息を呑んで相沢の反応を見守る竹下。
「あ、あぁ。はい。えと、自分は相沢です。相沢孝之」
相沢は竹下の顔すら見ないで、ただ淡々と自分の名前を述べた。
不安は的中していた。
相沢にとって竹下は同じマンションに「住んでいたかも知れない、だがひょっとしたらただこのマンションに住んでいる別の住人にあいにきた知人かもしれない」人物なのだ。決して掃除当番を二人して一緒にやったという記憶を共有する人間ではない。
「…私は、竹下マキです」
竹下もまた、淡々と自分の名前を答えた。
相沢の前で自分の名前を言うのは2度目だった。
驚きと悲しみで、何かを言おうとすれば声が震えてしまうのは判っていた。それでも何とか次の言葉を続けようとした。自己紹介をして終わりというのはあまりにも会話として成立していないから。
「あの…。助けとか来るんですかね?」
竹下の出した声が震えているのは彼女自身にも判った。
「どうなんでしょう。誰かが気付くかっていえばエレベータ2台あるからこっちが使えなくても片方を使うし、朝出勤の時間になったらエレベーター前が込み合うからそれで気付いてくれるかな」
淡々と答える相沢。
「朝…ですか」
それから無言の時間は続いた。
竹下は尿意を感じていた。それはまさに傷に塩が塗られるような気分だった。もしそのまま救助されなくて我慢の限界に達すれば好きな男性の前でお漏らしをしてしまう事になる。そういう状況にならなければ自分が何をするか判らない。ひょっとしたらショックのあまり、自殺してしまうかもしれない。身体は震え始めて、なんとかしてその尿意をごまかそうと必死だった。
いつしか昔の事を思い出し始めていた。
病弱で家の外に出れなかった自分。学校でも親がなんとか一般のクラスへと編入を望んだが学校側に拒否され、特殊学級となった。ただ一人、少し小さめの教室で勉強していた。体育会や文化祭では列に並んだ一番隅に「特殊学級」の列が出来た。それはたった一人の列。
彼女を見る他人の目は「変なものでも見るかのような目」か「道端に転がっている石ころを見るかのような目」のどちらかに一つだった。
「あれ誰?」「特殊学級の人だよ」「なんで一人だけ離れて座ってるの?」
無知から作られた言葉のナイフが彼女を傷つけた。
(私って…生まれてきちゃいけなかったんじゃないのかな)
いつしかそう思うようになった。
何度か自殺しようとも考えた。
だが一人暮らしを始めて、好きな人ができた。未来が閉ざされた彼女にとって、それは唯一の希望の光だった。だが、今その光は見えなくなっている。そして彼女の未来も照らされなくなって真っ暗になっている。
(このままなのかな…)
(このままなら…)
(私に生きてる意味はない)
気付けば泣いていた。
尿意を我慢する辛さもあったが、なにより辛いのは再び死のうと思った事だ。
そして、彼女自身が思っていた事を言葉にしていた。
「このままずっとこうなのかな…」
震えた泣き声でそう言った。
「どうなんでしょうね…」
相沢は再び、淡々と、彼女と目もあわさずにそう言った。
まるで竹下の事を嫌っているかのように。