16 恋人 - Lover 6

相沢は竹下に話しかける事はなかったが、真面目に黙々と作業する様は竹下の中の理想の男性像そのままだった。
(私は好きな人がいても話す事すら出来ない…だから、私にとってはこんな感じの静かな人がいい)
そんなある日の夕方、竹下は仕事を終えて家に帰る途中の事だった。
マンションのエントランスに向かっているとエレベーターに乗り込む人影がある。もう少しで扉が閉まってしまう。走れば間に合うかも知れない。でも彼女にとっては走る事はおろか身体を動かすことそのものが苦手だった。
(…でも、ちゃんと運動して鍛えておかないと)
それでも身体を動かさないとダメという意識はある。エレベーターに間に合わせるように駆け足になる。もう完全に扉が閉まったと思ったその時、再びその扉は開いた。中には男性が一人いる。
「すいません、ありがとう、ございますっ」
息が切れ切れになっている自分が恥ずかしかった。しかも、よく見てみれば男性は竹下が心を寄せている同じマンションに住む相沢だった。
(えっ…どうしよう、っていうか、なんで?)
心臓は先ほど走ってきた事もあってバクバクと音を立てている。それが悟られないように平静を装う竹下。心の中で落ち着け落ち着けと念じた。スタミナは回復してきたが感情で揺さぶられた心拍数は戻らない。
(早く開いて…何階でもいいから)
だが竹下や相沢が住んでいる上のほうの階に動いているはずのエレベーターはなぜか下の階、つまり地下へと移動するような動きを見せた。
(え?)
そして動きを止めた。
「ん?」
「あれ?」
二人が同時に驚く。
それから相沢はすぐに緊急ボタンを押した。押しまくった。だがなんら変化はなし。
「クソ…電源が着てないのかな?」
相沢はイライラしているようだった。
エレベーターに閉じ込められるというハプニング、それは普通の人にとっては大変な事である。だが今の竹下にとっては狭い空間の中で思いを寄せる男性が傍にいる事が何より大変な事だった。工場勤務帰りで化粧なぞしているわけでもない。すっぴんの、しかも決して可愛いとは言えない顔である自分が相沢の隣にいる事が何より大きなハプニングだった。それをハプニングだと彼に話したのなら、きっと「こんな状況で何考えてるんだ?」と怒られてしまうぐらいのものだ。
「そう…なのかな」
竹下は相沢にその気持ちを悟られないようにただ話しに合わせた。
「あれ?」
「どうしたんです?」
「電脳通信の電波届いてない事ないです?」
「あ、そういえば…なんでだろう」
相沢の話に合わせようとするものの、心はここにあらず。上の空だ。
(相沢さんは必死に出口を探そうとしてくれてる…けど、なんだろう。まるで私の事を空気みたいに。もしかして、私と初対面だと思ってるのかな?前に一緒に掃除をしたよね…覚えててくれてないのかな?)
最初こそ、好きな男と同じ場所に入れるという緊張感が心臓を揺らしていたが、今ではその心臓を動かす原動力は殆どが不安だった。自分が道端に転がっている石ころのように扱われる不安だ。それはトラウマのように竹下の心を激しく揺さぶっていた。彼女が小学、中学と味わったあの苦痛が呼び起こされていくのだ。