16 恋人 - Lover 3

相沢は既に何度か緊急時の呼び出しボタンは押していた。
だが押せども押せども反応がない。
「クソ…電源が着てないのかな?」
「そう…なのかな」
仕方が無いので次に電脳の通信回線を開こうとした。
だが電波が届いていない。
「あれ?」
「どうしたんです?」
「電脳通信の電波届いてない事ないです?」
「あ、そういえば…なんでだろう」
それから圏外となっている電波がエレベーターの室内のどの位置で圏内になるのかや、電脳通信以外にも携帯端末なども挑戦するが同じく電波は届いていない。そして緊急ボタンもなんら役に立つ事もなく、ただ時間が過ぎていった。
「とりあえず、その…自己紹介しません?」
女性が言う。
「あ、あぁ。はい。えと、自分は相沢です。相沢孝之」
相沢は自己紹介した。名前を言っただけの簡単なものだ。
(あれ?俺なんか変な事言ったっけ?)
女性は続きがあるのかと少し待ったが何もない、ちょっと間を空けてから、
「…私は、竹下マキです」
無言。
二人の間に重たい空気が流れる。
それでも何とか話そうとする竹下。
「あの…。助けとか来るんですかね?」
「どうなんでしょう。誰かが気付くかっていえばエレベータ2台あるからこっちが使えなくても片方を使うし、朝出勤の時間になったらエレベーター前が込み合うからそれで気付いてくれるかな」
「朝…ですか」
密室となった部屋でまず最初に不安となるのは空腹でもなければ眠気でもない。尿意だった。相沢も尿意は感じていたがまだ我慢はできる。だがそのまま時間が過ぎていけばいずれ耐えられなくなって、人生初で大人の自分が異性の目の前で小便をしなければならなくなるのだ。
そして、それは竹下も同様だった。竹下が身体を僅かに動かして尿意を押さえ込もうとしているのが相沢にも判った。苦しそうにしている。ずっと無言だった竹下が言う。
「このままずっとこうなのかな…」
今にも泣きそうな声だった。
尿意を我慢している女性を前にして何を言えばいいのか、相沢には判らなかった。そういう経験は普通は殆どの人はしないものだ。それに加えて、今まで誰かとそのような「真剣な話」などした事もない。というより話をするような事がないのだ。
「どうなんでしょうね…」
それが精一杯の反応だった。
とうとう泣き出す竹下。
「私、ずっと、今まで、嫌な事ばっかり。子供の頃はずっと病弱で、友達も居なくて、友達の作り方とかもわからなくて、学校に通えるようになってからもずっと、一人だった…何度か死のうかと思った。今だって、人前でおしっこ漏らしそうになってて、なんでこんな嫌な事ばっかり…ひっくひっ…」
最初はどう返せばいいのかわからずただ慌てていた相沢。だが竹下の話を聞いていると自分の過去を振り替えざる得なくなっていた。病弱でこそなかったが彼には友達はおらず、クラスの不良達にヘラヘラとご機嫌取りをする、そういう学生時代しかなかった。そんな暗闇からなんどか脱出しようとした。時には死ぬという手段すらも考えていた。そんな封印していた過去が引っ張り出される恐怖、焦り、苦痛。
自分が今そこにいるのは死んでいないからだった。
死なないという選択肢を選んだ。何か勇気が必要だったかと言えば何も無い。ただ、このまま死んで今の辛さから逃げ出すか、まだちょっとだけ我慢してみようという僅かな望み、そのギリギリの紙一重のパラメーターが今の自分を支えていた。それはただの偶然だった。もしその時、死を選んでいたら今の自分の生活は存在しなかった。
(そうか…確か俺はここで、今まで選んだ事のない選択肢を選んだんだ。自分の力で何とかするっていう)