5 狂い始めた歯車

1

風雅は今までの経緯をすべて話した。
この世界が存在しない仮想空間である事、この世界の住人は現実の世界から脳をネットを介してコンピュータへ接続しているという事、ネットから接続している間は生命維持装置で命を繋げているがその時間は限られている事、何故か現実世界の記憶が消されている事、そしてなによりシステムが制御できなくなっている事。その話をする前に、前置きとして「こんな話をしてもすぐに信じる事は出来ないと思うが」と言っていたが、案の定、話の後にはこんな言葉が飛び出した。
「…そんな事言われても、信じるのは難しいぜ」
そう言ったのはロイドだった。
「確かにな…見せれるような証拠があるのなら見せたいよ」
「それで、風雅が目標としているのはこの閉鎖された世界を開放する事なんだろ?それが成されると俺とかはどうなるんだ?」
「現実の世界で意識が戻り、そして記憶も戻る」
「じゃあ、もし風雅の目標が果たせなければ、このままこの世界にいるって事か?」
「そうじゃない、さっきも言ったが生命維持装置で維持できるには限度がある。人の身体ってのは使わない部分が退化していくように出来てるんだ。俺の目標が果たされるのが遅れれば遅れるほど…つまり生命維持装置に繋げたままにすれば身体全体の機能は衰えて回復が困難になる。脳がネットに接続されたままの状態であっても、多分同じだろう。脳が退化する。現実の世界で意識が戻っても身体の機能は大きく衰えているので下手っすりゃ一生ベッドから動けないかもしれない。それに、何らかの理由で生命維持装置が止まったら死ぬだろうし、今はシステムは…正常とは言わないが…動いているが、もし何かの理由でこの仮想空間を作り出しているシステムが止まったり壊れたりするとそこに接続している人間は全員死ぬかも知れない」
「風雅の話している内容はわかるんだが…じゃあそれが本当なのか?って言われたら…そこなんだよな」
風雅は豊吉と目を合わせて何かを合図しているようだった。それは話さなければならないが今まで黙っていた事のようだ。
「みんな、寝ている時に、この世界とはまったく異なる世界の夢を見ることはなかったか?もしくは…シャングリラという言葉を知っているか?」
一同は顔を合わせて首を傾げた。だが、はつみとロイドははっとして顔を上げた。この二人は心当たりがある、と察した風雅はさらに続ける。
「脳外科医じゃないから理屈はわからないが、夢を見ている時や、この世界で"現実の世界"と似たような経験をした時に記憶が一部復活する人もいる。それとシャングリラ、という言葉が記憶にあればそれは記憶が復活する兆候だとも考えられる」
ロイドは明らかに同様していた。顔色が変わっているのが周囲の誰にもわかった。
「ちょっと待てよ、あれが現実の世界だっていうのか?」
「何を見たんだ?」
病室にいる自分、手足のない自分、窓から空を見つめて、木に止まったツバメを見る自分。すべてに絶望して死を考えている自分。それらが灰色の世界の記憶としてロイドの脳裏に浮かんでいく。想像ではなく、それが現実だと脳が意識し始めている。ロイドは否定しようとした。自らの脳が考える現実を否定しようとしたのだ。
「違う!現実じゃない!」
「ロイド!」
ロイドはイライラと髪を掻き乱しながらその場を去っていった。風雅は呼び止めようとしたのだが、その腕を振り切って。心配になったのかマハはその後を追っていった。

2

その日はそのままゼノグラシアの廃墟の中でキャンプを取る事となった。
風雅が現実の世界の話をしてから、はつみが一切喋らなくなっていたのをキサラは気づいていた。
「はつみ、どうしたのですの?」
見れば食事も殆ど食べていない。
「風雅の話を聞いてからずっとこんな調子なんだ…」
はつみのバッグの中からテトが顔を出してそういった。口の周りにははつみの食事の一部がついている。食べ掛けの食事は本当はテトが食べたのだろう。
「この世界が嘘の世界だなんて…嫌だよ。せっかくみんなと出会えて、辛い事も楽しい事も色々あったのに、全部偽りだったなんて…嫌だよう」
そう言ってはつみはポロポロと涙をこぼした。
「わたくしはそうは思いませんわ。だって、はつみとわたくしが話してるのは偽りではないのでしょう?ちゃんとわたくしの目にははつみが傍にいる様子が映っていますわ。これは偽りなんかじゃありませんわ」
「…でも、イスプリスの村の人達は?私が過ごしてきた邪馬の修行時代は?…どんどん記憶から消えていくの。鮮明に残っているのはイスプリスの村に帰ってきたところから。嘘だったのかな?」
「…」
キサラは何も返せなかった。はつみの投げかけた質問に対する答えは解らない。だが、古い記憶がある1線よりも前は急速に忘れ去られていくのは解った。つい最近まで風雅達と共に行動してきた中で昔の記憶を思い出すことが無かったから気づかなかったが、風雅の話を聞いて自分の場合も昔の記憶が正しいものなのか、考え、思い出す中で消えていく記憶に気づいたのだ。
その夜、はつみは涙を流す中で眠りについた。

3

それは夢ではなかった。
はつみが思い出した記憶の断片だ。
無事希望していた女子高に合格したはつみは、それからの学校生活に期待を寄せながら、経過していく刺激的な日々を享受していた。その女子高へと合格すれば大学もエスカレーター式で入学できる。地域一体はその女子高の系列の学園都市であった。はつみの記憶には詳しくは出ないが、何かの宗教系の学校である事は、校内に教会が建てられている事から解る。多くは無いが何人かの友達にも恵まれて、それから幸せな高校生活が訪れる事が誰の目からも想像できた。当座は。
「夏美、そろそろ教室移動しようよ」
その現実の世界でははつみではなく「夏美」と呼ばれている。そして目の前にいる眼鏡を掛けている女性の名前はまだ思い出せないが、けして多くない夏美の友達の一人であろう。二人は教室移動の若干の準備を終わらせて廊下へと進み出た。
「隣の街にある高校さ、前までは男子校だったじゃん」
と眼鏡の女子が言う。
「ん?」
「共学になったんだって」
「あ、知ってるよ。なんか生徒の数が少なすぎて共学にしたんだよね」
「うんうん」
「なんかやだよね…」
「え?」
「だって、もしかしたらこの女子高も共学になるかも知れないでしょ?」
「そうだけど、共学になるのって嫌なの?」
「やだよ〜…私、そんなに顔、可愛くないし、そんなの見られるのが嫌だし」
と眼鏡の女子は俯いて話す。
「そんな事ないよ〜理穂は可愛いほうじゃない?」
眼鏡の女子は「理穂」。お世辞にも可愛いとまではいかないが普通の容姿、だが眼鏡がどうしても顔の印象を隠してしまっている。本人もそれを自覚しているのだろう。だがもっと自覚するのは「夏美」とセットで歩いているとどうしても見劣りするのだ。クラスの女子は殆どがそうだろう。顔もスタイルも、夏美とセットでいれば常に見劣りしてしまう。それに気づいていないのは夏美本人だけだった。

4

放課後の商店街に夏美と理穂の姿があった。
通学路から少し外れれば帰りには商店街を通過する事が出来る。二人はそこで少しだけ買い物をして帰ることにした。
その反対方向から近くの男子校の生徒と思われる一団が見える。夏美の高校の生徒がその商店街で買い物をして帰るのはよくある事だったが、時折、その女子達と話している男子達を見掛けていた。その男子校の生徒もそのなかの一つだ。それ自体はよくある事だったが、その日、何も面識もない男子が夏美に話し掛けてきた。そこで初めて夏美はそれまでその商店街で男女が話しているのがナンパだと知ったのだ。
「いつも見掛けるけど、聖ラミエルの人だよね?」
「え、あ、はい…」
夏美が答えると背後にいた理穂は夏美の後ろに隠れる。
「今、暇?どっか遊びに行かない?」
男は栗色に染めている髪とピアスをしてタイも少し外している。いかにもという風なナンパな感じで背後にも似たような系統の男が2人いる。夏美はそのルックスをみてどう考えても自分とは合いそうにないと感じ取っていた。クラスの女子にはその栗色の髪の男と合うようなタイプの女子がいるが、夏美とその女子とは眼が合う事はあっても話す事はない。自分とは別の種類の人間、そう認識している。
だが少し様子が違うのは、男は決して遊びのよな感覚で夏美を誘っているのではなく、真剣な顔をしていたという事だった。だが初めてナンパされる夏美にとってはそれはどうでもいい事だった。早くこの場から逃げたい、そう思う一心で、
「すいません、用事があるので…。いこっ」
そう言って理穂の手を取ってその場を駆け足で離れた。それまでノンビリ買い物をしていたのだ、明らかに「用事があるので」という理由は不自然だった。
「はぁ、ビックリした」
と理穂が言う。
「いつも居るよね、あの人達」
と夏美。
「ナンパする相手を間違ってるよね、絶対…」
そう理穂が言ったが、夏美も同意見だった。普段話しかけているのはピアス男と似たような雰囲気の女子だけだ。しかも夏美の高校には彼等に合いそうな雰囲気の女子は殆ど居ないのだ。そして先ほどの男が普段のナンパの雰囲気とは違うという事も解ったが、理穂には言わなかった。

5

数日後の同じ商店街。
夏美は親に頼まれて夕食の材料を買いに来ていた。例のナンパをする男が近くにいないかどうかにも注意を払っていた。
目的のスーパーに向かう途中、ふと、ショーウィンドウに目が行く。そこに飾ってあったのは様々な水着だ。時期は少し早いが今年の夏の為にと買っておこうとする客を狙っての事だった。去年の売れ残りなのか、値段もそれ相応に下がっていた。
「水着かぁ…」
中学生の時には友達と海やプールに行くことはあったがあくまでも同性とだ。高校生になったという甘い妄想がいつしか架空の彼氏と海やプールへ行くという想像を掻き立てていく。それは彼氏が出来てから考える事なんだと、水着を少しでも買おうと思っていた自分を律する。ふとショーウィンドウから目を離したその時、ガラスの反射に見覚えのある男の姿が映った。
「え?」
夏美が振り向いたその場所にいたのはつい最近、夏美をナンパしたあの男だった。だがよく見なければそれは判らないというほどに変わっていた。茶色に染めていた髪は黒に戻し、ピアスは外している。制服姿だがいつぞやの「なるべく乱れた制服姿」ではなく、普通の着方なのだ。一見別人に見えてしまうほどに変わり果てていたので驚く夏美。
「や、やぁ…また会ったね」
(やっぱりそうだ)
見覚えのある顔は夏美をナンパしたあの男だった。
「その髪どうしたの?」
色を元に戻している髪について夏美が聞く。
「軽い気持ちじゃないってのを知ってもらいたくて」
そういうナンパの方法なのかと一瞬思った夏美だったが、髪色を変えるにも周囲の目がある。彼の友達と思わしき人々はその変化に違和感を覚えただろう。その友達の引き止めをも無視して夏美の為にそうしたのだと考えると、十分に彼の本気が伝わってきていた。だが、それだけに自分の為にそこまでしてしまう事に戸惑う夏美。そして話を続ける男、
「その…友達からでも、いや、知り合いからでもいいから…考えて貰えないかな?」
「え?…」
夏美は戸惑い、視線を逸らして焦った。
「ここじゃなんだし、どっかで話しようよ。喫茶店とかさ」
夏美は黙ってうなずいた。ただ、そうするまでに、ずっと困惑していたのだ。その様子を見て「嫌だったら無理にでもって言わないから」と男が言ったからだった。
男は秋元と名乗った。近所の男子校の高校生、夏美よりは一つ年上だった。これまでの経緯を淡々と話していく秋元。秋元は普通に高校に入学して、それから友達も作り、普通に高校生として学生生活を過ごしていた。次第に周囲の友達は今の様なルックスへと変わっていった。それに会わせるように秋元も自らを変えていった。友達同士の付き合いのなかで他校の女子グループとも繋がりが出来、恋人も出来たがそこで自分の今の人間関係、特に恋人との関係に疑問を持っていたらしい。
「住む世界が違うんじゃないかって思って」
「そうなんだ…」
「俺は中学の時は、今の君みたいな、一人か二人の友達と一緒にのんびりしてたんだ。最近は、カラオケだとかボーリングだとか…まぁそういうつきあいは普通なんだろうけどさ、俺にとっては少し苦痛だった。そんなのに毎回連れてかれて、疲れたよ。俺の恋人も派手な女でさ…俺が新坂のベイブリッジに行こうって言ったら、『おっさんみたいな事を言わないで』ってさ…」
秋元は笑ってそう言ったが、表情は曇っていた。新坂のベイブリッジで素敵な夜景がみたいから、ただそれだけだったのに『おっさん』と称して笑った彼の恋人。住む世界が違う、そう感じたのはそこからだったようだ。
「夏美さんがどんな人なのか、俺はあまり話した事がないからわかんないけど…でも俺が好きになりそうな、俺と同じ世界観の女性だと思ったんだ」
夏美は秋元と一緒に新坂のベイブリッジに行っている情景を想像してみた。今まで恋人は居なかった夏美、そんな情景は想像するのが難しい。それに、秋元のような美男子が夏美とデートする事も信じられないのだ。ただ周囲から見れば二人は、美男美女のお似合いのカップルであったが。
それから秋元と別れて家に戻ってからも、夏美の頭の中は秋元とデートしている自分の事で埋め尽くされそうになっていた。初めて男性に告白されたという嬉しさもあった。だが自分の中で自分自身に「何を甘ったれた事を考えてるの?馬鹿じゃないの?」などと罵倒する自分が居ることはわかっていたのだ。

6

それから夏美と秋元は「付き合っている」とまでは行かないが、たびたびメールのやり取りをする関係が続いていた。秋元は"以前の"見た目からは想像できないほどに、したたかで紳士的な男性であった。ただ、本人も話しているように少し趣味がおじさん臭い点は夏美も気づいていた。「温泉に行ってみたい」「趣味は写真(風景)を取ること」などと、高校生の趣味といえば少し疑問符が出そうになるものだ。
「新坂のベイブリッジに行きたい」
そんなメールが届いたのは二人が出会ってから2週間ぐらいしてからだ。ベイブリッジはどこにでもあるような商業・軍事用の橋で人が少ない場所にあってそれほど有名ではない最近造られた橋である。ただ、夏美や秋元が住んでいる街ではその橋は巨大な建造物としては珍しいものだった。そしてメールの中では夏美の両親が心配したらいけないからと、二人で橋を見に行く時間は午前中にしていた。夏美は初めてのデートに少し期待と不安が織り交ざって8割は不安だったが、しばらく考えた後、メールにOKの返事をした。

7

デートの当日、駅前で秋元と待ち合わせて二人はバスで新坂へと向かった。
初デートに緊張してあまり会話が出来ない夏美に、リラックスするように自分の話ばかりしている秋元。見れば、秋元のピアス穴は塞がりつつあった。
ベイブリッジについてから、橋下の公園で初夏の海を見てまわる夏美と秋元。それから秋元は本当にその建造物が好きだったようで。橋の下から何枚も写真を取っていった。
「俺さ、いま建築技師の免許取ろうと思ってんだ。こんな橋を作ってみたい。これってさ、単にセメントで塗り固めて出来てるんじゃないんだぜ、色々物理の難しい法則の結晶なんだ。ほら、例えばあの繋ぎ目とか…」
秋元は嬉しそうに橋の解説をしている。そこには嘘は無かった。あの頃の秋元とは想像できないような変化だった。嬉しそうに説明する秋元を見ていると夏美も嬉しくなっていった。その日は午後には夏美と秋元は別れた。夏見は本当は少しだけ秋元と別れるのが寂しくなっていた。だが「両親が心配するから」と秋元は言う。そして「写真、今度メールで送るから」と嬉しそうに言った。

8

それから1週間ぐらいが経過していたが、秋元からメールは来なかった。
夏美が何度かメールを入れてみたが、それまで頻繁に来ていたメールが嘘の様に止まってしまったのだ。それから、夏美の携帯にはメールが相手先に届いていない、という旨のメッセージが届いた。秋元のメールアドレスは無くなっていた。