174 スーツケースの男 10

なにはともあれ、俺はスティーブが目の前で死んでいるという事実を知りながらもそれを隠蔽し、コーネリアとスカーレットの精神的な揺さぶりにも耐えた。今でも手や足が震えている。
ようやくホテルの部屋に戻って来た俺は冷や汗でベトベトになっていた服を脱ぎ捨てて素っ裸になってシャワー室へ入った。
シャワーノズルを壁に掛けて、壁に手をついて頭から浴びる。
壁には大きな鏡が設置してあってシャワーを浴びている美少女(俺)の姿が映される。クリーム色の肩まである髪はお湯に濡れてピッタリと首や肩に張り付いていた。その髪の先の方にはピンクの乳首が顔を覗かせている。そんな美少女が鏡の前でニヤニヤと笑う。
「今日は大変な一日だった…けれど、耐えた。また一歩、成長したような気がする。そう、確実に、あたしは成長している」
真の強さというのは心の強さである、と心眼道の師匠が俺に話していた。正確には『真の強さというのは心の強さでござる』と、オタクのソレのようにござる語で話していた。
戦闘も戦争も武道においても、力の強い弱いというのはそれほど意味をなさない。どんなに腕力を鍛えた人間も鉄砲で撃たれれば死ぬし、どんなに重装備で固めた戦車も爆撃されれば終わりだ。じゃんけんのように、グー、チョキ、パーでどれが一番強いのかはないのだ。
だが、そんな中でも強さを決めるものがある。
それが精神力だ。
精神力というのは言い換えれば『神の意思に背く力』だ。
宗教的な意味合いではない。
ヒトが創造主によって創られたものだと過程するのなら、そのヒトの行動を決めるのは欲求と感情だ。これらはヒトが意図して起こしているものではなく創造主によって仕込まれたプログラムに過ぎない。もちろん、それらはヒトの社会の発展には大きく寄与しているが、時としてヒトの判断を鈍らせる要因になる。
感情や欲求に打ち勝つということは、何もロボットのようになれとか節制をしろとかそういう事じゃない。さっきもモノローグで語ったけれども感情や欲求は社会を発展させる為に必要で、豊かな人生を歩むのに不可欠なのだ。ただ、度が過ぎると不幸になるというだけ…どんなものも度が過ぎると身体に、心に、人生に害を及ぼす。本当に大切なのはこれらの神が与えた能力を自分にとって都合がいいようにコントロールすることだ。
つまり、俺はドヤリングをして自らの欲求を満たす…だが、それには振りかかる火の粉を片付けなければならない。その時、俺はロボットのように感情を制御し、聖人のように目先の欲望に目を瞑るのだ。
俺はグラビティコントロールでベッドの上に置いてあるバッグの位置からパンツを引っ張りだすとシャワールームまで持ってきて、それを履いた。手を使わずに。同時にタオルはタオルで髪を拭いて、別のタオルは身体を拭いた。最初は一度に1つのものしか動かせなかったけれども、今の俺は同時に幾つも、別の力を加えてそれぞれ動かせるようになった。
まるで魔法のようだ。
ヒトは成長する。
人生の終わるその瞬間までヒトは成長し続ける。
成長しない人間は、10年後の自分はどうなってるかとか、ある目的…例えば金持ちになりたいとか、女とセックスしたいだとかそんな目的を掲げ、そこに向かって何をするか真面目に考えている連中だ。
そうやって目標を定めたり、周囲の目を気にして10年後の自分を見積もったりすると視野がどんどん狭くなる。目標にそぐわないと思われる自分の成長を無視しようとする。成長だけではない、自分が手に入れてきたであろう様々な大切なものに気付かなくなる。
成長とは、真の成長とは、今日、今、この瞬間、何を成し遂げたかだ。
俺は変身前で4つの物体を別々の動きで動かせるようにはなっていたが、5つめに挑戦しようとしている。いずれ6つ、7つと動かせるものが増えていくだろう。その結果が何に影響するかはわからない。金持ちになるのかもしれないし、女とセックスするのかもしれない。
だが、どれもあくまで結果であって、過程ではない。大切なのは小さな成功と失敗の積み重ねと知識の習得なのだ。それは金持ちになることや地位や名声を手に入れることや女を手に入れることよりも重要なのだ。
今日、俺はコーネリアとスカーレットによる精神的な攻撃に耐えぬいたのだ。では次は何を成し遂げることになるだろうか?あえてさらに難しいレベルの精神的攻撃に耐えるか?
などと考えながら俺はドライヤーで髪を乾かして、そしてノーブラパンツ一枚でベッドに潜り込んで眠る。泥のように眠った。
…。
そして翌朝。
俺は失禁した。
失禁した、というのは語弊がある。
失禁しそうになった。
ホテルのロビーにはスカーレットがスーツを着こなして訪れたわけだ。コーネリアもそこにいる。俺も向かったわけだが…。
ティーブがいる。
あれ?
え?
え、ちょっ…。
え?
お前…昨日死んだよね?
え?
「え、ちょっ…えええぇェェェえええぇぇぇ?!」
「何よ?どうしたのよ?」
「Hey、何ヲ驚イテルンデスカァ?」
俺はコーネリアの肩を掴んで揺さぶって言う。
「スティーブが戻ってきてんじゃん?!」
「He…He…HeHeHe。Safeデス。マジデ、テロリストニ殺サレタカト思ッテマシタァ…戻ッテキテヨカッタ」
いやいやいやいや!
殺されたよ?確実に殺されたよ?!
罠に引っかかって自爆したんだよ!
思いっきり酸みたいなので身体がドロドロに溶けて!
俺見たんだもん!!おっかしぃな、なんで死んd…
いや、待てよ…本当に本人か?
前にコーネリアは物質変換の能力でそこら辺に転がっている土を人間に変えた事があるからな、死体の状態でだけど。
「コーネリアが物質変換能力で創りだしたんじゃないの?!」
俺はコーネリアのツインテールをガッシリと両手で掴んで前後左右に振りながら言った。マジキチに見えるぐらいに振った。
「Hey!!Don’t touch me!!私ハ生キタ人間ヲ創リダス事ハデキマセーン!!何ヲ勘違イシテヤガルノデース!」
さすがにこれは想定していなかった。
想定外の事態に脳がパニックになる。いや、必死に順応しようとしている。人間は、動物は、生物は環境に順応するようにできているんだ。順応するんだ、この事態に。
俺はフラフラとスティーブに近づいて言う。
「ほ、本当にスティーブ?昨日の事覚えてる?あたしと話したこと」
「何を言ってるんだい?昨日は僕はずっとホテルにいたよ」
ティーブはそう言って彫りの深い目で俺やスカーレットやコーネリアを見て、お前らいったい何を言ってんの?という顔でいる。
俺は、静かに振り返ってコーネリアやスカーレットに向かって、『なぁ?おかしいだろ?』というのを声に出さずジェスチャーだけで伝えた。が…返ってくる返事も『確かにおかしいけど、よくわかんね』という意味あいで肩をすくめるだけだ。
お、おかしい。このおかしさは俺だけじゃないようだ。
だが、まぁいっか。
結果オーライだよ!!