161 アカーシャ・クロニクル 2

目の前にぐちゃぐちゃの肉塊がある。
密閉された試験管の中だ。
密閉された試験管内ではさっきまで一人の人間が入っていたが、今はもう人間だったのかすら怪しい、腐食した肉塊が転がっている。
しかし、こんなに近くにいるのに臭いが漂ってこないのは完全に密閉されているからか。隙間が開いていたら教授の言うところの腐食性ガスが漏れだしてしまうからな。
あの後、腰の辺りが溶け始めたところで完全に女性の意識は飛んだのだ。そして死んでいるのか死んでいないのかわからない肉の塊は、腰、胸、肩とゆっくり溶けて、最後は頭蓋骨の部分が肉に埋まった状態で停滞した。骨が溶けにくいのか腐食性ガスの流出を停めたのか。
実験は終了したのか?
明智教授は装置に備え付けのキーボードを忙しく叩いて操作パネルを制御していたが、暫くするとそれらの作業が終了したのか、再びコントロールパネルの前にやってきた。
どこから持ってきたのかコーヒーをテーブルの上に置いた。
人を一人殺しておいてひと仕事終えた的な顔をしているのがムカつくな…まぁ、そりゃ俺だって人は沢山殺してるけれど、罪の無い人間を殺したりはしないよ。人を殺すのに罪があるないは関係ないと言われたらそれまでだけど…。
そのコーヒーを半分ほど飲んだ後、またいそいそと動きまわって、今度はどこから持ちだしたのか、カメラを脚立付きでコントロールパネルの前に置いて、パネルを背後にして自分自身を撮り始めた。研究の結果を映像に収める為か?
それにしては随分と安物のカメラだな。
中国製っぽい。
おそらくはこれらの装置に金を掛け過ぎててカメラまでまわらなかったか、撮れればそれでいいという理由で近所を回って手に入れたか。
明智教授はカメラを前にして腕時計を見た。
「実験体の死から15分経過」
と、一言言う。
それから再びコーヒーを飲む。
何か話をするわけでもなく、研究結果をカメラに撮るわけでもない…何を待ってるんだ?
この男の話だと、人は死ねば走馬灯を見て、それはアカシック・レコードに情報を吸い上げられるからだ…ってことだろう?
さっき走馬灯らしきものがホログラムにも表示されてた。
おそらくはそのデータもディスクに保存されただろう。
実験の結果として。
…ってことは、死んでから待つのに何か意味があるのか?
何を待ってるんだ?
「今だにアカシック・レコードからの吸い上げがない」
ん?
腕時計を見ながらそう言う。
おかしいな。
明智教授がさっき自分で言っていた。
走馬灯として記憶の断片が上がってきてたら、それは吸い上げだと。アカシック・レコードが生物の中にある記憶を持ち帰ってるんだと…。それと辻褄が合ってない。
俺はホログラムのところに表示されている大きな数字を見た。さっきから教授がチラチラとその数字を気にしていたからだ。…そして、俺のような素人にもそれが何を意味する数字なのかわかった。
グラムだ。
おそらくは試験管内の重量を示している。
人の体重はキログラムで表示するはずだけれど、21グラムほどがアカシック・レコードに回収されるからグラム表記してるんだろう。
英語でBefore、Afterと表示されている。
ってことは、女性が死ぬ前の重量と、死ぬ後の重量があるわけか?
それにしても、えらく重たくないかな?
10tぐらいあるぞ。
もしかして、この数値って、試験官内部じゃなくて…え?このフロアの重さ?それなら数値は妥当だ。
「20分経過。今だに吸い上げはない…」
BeforeとAfterで同じってことは、21グラム軽くなるっていう話と辻褄が合ってない。一般人で幽霊の『ユ』の字も信じてない可能性が高いという俺に言わせれば「やっぱオカルトだったじゃん」とツッコミを入れたくなるところだ。
「私の推測は当たっている」
そう言ったのだ。
垂れる汗をハンカチで拭いている。
俺は全然意識しなかったが、どうやらこの記憶というか、アカシック・レコードの断片では、このフロア全体の空調もストップしているらしい…確かに空気が出入りすると正確な重量が測れないからな。
教授は暫くしてから再びカメラに向かって話す。
「彼女が死ぬ前、私は彼女にある映像を見せた。そこには家族や友達の写真があった。彼女はそれを見て、二つの選択をするだろう。一つは、自分を知るものに別れを告げてこの世を去る…もうひとつは、今から死ぬ自分の運命を呪うことだ。アカシック・レコードの吸い上げがあるのは前者のパターンのみだ」
…。
えっと…つまり、どういうことだってばよ?
俺の頭が一瞬だけハテナで埋め尽くされた。
「このフロアは四方に盛り塩がしてあり、念が十分にこもっている札を壁に張り巡らせてある。つまり彼女がアストラル化した際に散らないようにしてある。そして、このフロア全体の重量が今は変化がない。私が予測していた結果が的中している。アカシック・レコードはこの世に未練を残している生命は回収しない」
未練のある死。
幽霊。
アストラル体
アカシック・レコードの回収…。
俺の脳内のシナプスが激しく紐つこうとしている。過去に。現在に。しかし、その途中で感情の断片がそれを邪魔しようとする。
無感情でいられるのならきっとこれらのニューラルネットワーク内の接続はスマートに行われるだろう。しかし、そんな人間は居ないし、いたとしたらそれは人間ではない。
ケイスケはあの時、俺に何て言った?
「生きたいという気持ちが必要」
あぁ、そうだ。
そう言っていたんだ。
それは、未練じゃないか。
クソッ…。
これは終わりじゃない。
始まりだ。
今から始まるんだ。
そして明智教授はカメラを前にして言った。
「これより、ドロイドバスター生成の実験を開始する」