105 S-Day 7

放課後、帰宅部の練習の為、早々に下駄箱へと向かう。
それにしても…改めて考えてみるとあのストーカー女「牛塚」はずーっと前から俺の近くに居たのかもしれない。人は視界に入っているもので認識出来るものは限られてて、ちょうどエロゲの、立ち絵である2次元キャラの背景となっている画像は目には映っているが見えてはいないと言われている。それは脳で処理可能な情報が限られているから、という説明がされているが、俺にとっての牛塚はそういう「脳で処理しなくてもいい」人間だったのだと思う。ある意味そんな立ち位置を得る牛塚の能力は尊敬に値するよ。スパイになれるんじゃないの。
しかし今は牛塚がスパイであることが、いやストーカーである事が俺にはバレちゃってるので俺の脳はむしろ牛塚を最も危険視し、意識するようになっていた。例えば「牛塚をさがせ」っていうゲームがあったらきっと俺は今のところはトップ3の成績に踊りでているだろう。生物学的に怖いからな。ストーカーっていうのは。
ただこんなモノローグを知っている人が居たのなら「キミカはドロイドバスターなんだからいざとなったら牛塚を始末すればいいんじゃね?」とクールに言っちゃう人もいるだろうが、それなら別にドロイドバスターだろうがそうじゃなかろうが、殺ろうと思えば殺れる。
しかしそれを実行しないのは人間としての最低限度のモラルというのがあったり、警察沙汰になったりと色々事情があるから面倒臭いのだ。
そういう意味ではストーカーは殺人鬼よりも怖いような気がする。
殺人鬼は人を殺したような人間だから自分の中のモラルはある程度は維持されるし(それでもやっぱり人を殺すのはダメという人もいるが)警察沙汰になっても正当防衛という線で狙える。ただ、牛塚はストーカー行為をしているがその行為そのものは言い方を変えるのなら「恋愛活動」とも取れる…(のだろうか…ちょっと不安になってきた)そんな感じで境界線が曖昧だから処置も曖昧になってしまうのだろう。
牛塚に「お前の事はなんとも思ってない(というか迷惑してる…)」って言っても引き下がるような人間ではなさそうだし、やっぱり最善の策は奴が俺の事を諦めるきっかけあればいいという事だろうか。ただ、昼食の時間にアイツは俺の食べているバイキング料理の内容が気に入らない的な事を言ってきて、自分が考えた昼食を俺に食べさせようとしてきたから、仮にアイツに嫌われるような人間を俺が演じたとしても、自分が気に入るような人間に変えようとするだろう。
支配欲が強くて思い込みが激しくて、そして相手の事は考えない人間の恋愛観…。その矛先がアニメなどの2次元の世界に向かない時は、人はその人間を「ストーカー」と呼ぶのかもしれない。
という事を考えながら俺は帰宅部の練習…つまり、学校から家へと帰ったわけだけど、途中で下駄箱のところでストーカーの牛塚が友達と話をしていた。さり気なくこちらをちらちらと見ながら。
俺が考えすぎではないのなら奴は俺が帰るタイミングを見計らってそこにいたのだろう。もし仮にゲーム「牛塚を探せ」があるのなら今のポイントは5点ぐらいだ。
ちなみに、普段よりも足を早くして帰ったのに奴はバス停の前に待っていた。もし俺が牛塚という人間を知らなかったらまったく違和感なかったと思う。普通に女子高生が友達と話をしているだけなんだから。まさかコイツが俺目当てでどうにかして近道をして待ちぶせしていただなんて、やっぱり世の中表の世界と裏の世界があるというものだ。テレビで言うところのストーカーは陰湿で、特殊で、友達なんて居なさそうで、着ている服なんかも異常者そのものなのに、リアルの世界のストーカーはさり気なくターゲットに近づいてサバンナの草食動物のように周囲の景色に溶け込みながら、同じくサバンナの肉食動物のように捕食するのだ。ここでいうところの「捕食」はサバンナの肉食動物のソレとは質も長さも悪い意味で高度だから要注意だ。
俺はバスを降りる、奴もバスを降りる。
友達はどう思ってるんだろう?
「てめぇの家はここじゃねーだろ、あ、いつものストーキングか」なんて思いながらも牛塚が特に人当たりも悪い人間ではっていう性格だから常に一緒にいるのかな?
ここでテレビドラマに出てくるストーカーなら俺の後を思いっきりついてきて家の前にいるのだが…背景にさり気なく溶けこむタイプの奴はそのバス停から歩いて自分の家まで帰ったっぽい。
家に帰ってから冷蔵庫に向かい、昨日買い置いてたコンビニの3色団子をお茶と一緒に頂きながらテレビを見ていた。
まずナツコが帰宅して、
「あのストーカー野郎いなかった?」と俺が聞くも、
「特に誰もいませんでしたわ、もしかして帰りもつけられていたんですの?」と返される。
「帰りはバス停までついてきたよ…」
「さんざんでしたわね…。というか、いつも気づかないだけでじつはずっとついてきたと思うとゾッとしますわ」
「はぁ…なんとかならないかなぁ…」
「わたくしが普段から見ている映画やドラマでは…参考になるかわかりませんけども、最後はストーカーが発狂して主人公の友達とかを殺すか、主人公に殺されるかのどっちかですわ」
「ナツコが見ているホラー映画の中で一番現実的な話だね…」
「えぇ…」
それからナツコは2階の自分の部屋へとあがった。
つづいてマコトが帰ってきたので、
「ねぇ?あのストーカーいた?」
と聞いてみる。
マコトは普段からケイスケが家に居ない時は食事を作ってくれるので普段から買い物をして帰宅する。それらの買い物袋などを冷蔵庫などに整理しながら、
「居なかったよォ…キミカちゃんをつけてきたの?帰りも?」
「うん。バス停までついてきた」
「警察にいったほうがいいかもね…」
「こんど言ってみようかな」
「なんだかラブザドリアの2人みたいだね」
「う、うん…」
ラブザドリアの2人っていうのはラブザドリアっていう砂漠の中にある都市からラメリアっていう沿岸の都市までキロとアイムという2人の主人公が互いに殺し合いをしながら移動するっていう話で、キロは自分の命を守るために戦い、アイムは憎しみの為に戦う。
最初は2人共武器を持っていたんだけど砂漠の中での環境で武器が使えなくなり、追い掛け回すほうの主人公はそれでもやめないで、石や棒や手足、そして歯などを使って相手を倒そうとする。
昼夜を問わず襲撃するけど人間はそれでも食べたり寝たりしなきゃいけないわけで、闘いに勝ったとしても生き残れるかはわからない砂漠という極限の環境下で「憎しみ」と「防衛本能」のどっちが勝つのかっていうのに主題をおいて観客を楽しませた。
これがアメリカのB級映画だったら2人の闘いをえらく面白く飾って観客を喜ばせるだろうし、ついぞ5秒前のシーンでは棍棒で殴られて血だらけだった主人公がその5秒の間に血も拭いて怪我も治り、それだけに飽きたらずお化粧までしているとかザラだろうけど、ラブザドリアの2人に限っては面白く見せるよりも闘いをシュミレートして映画という限られた時間内で極限状況の2人の闘いをいかにリアルに描くかというところを主としているドイツ映画なので、アメリア映画のようなシーンを飾る要素は極めて少ない。
この映画の結末は結局「防衛本能」であるキロが勝った。
火事場の馬鹿力で「憎しみ」で襲いかかってきたアイムを殺して喉が乾いていたキロは相手の血を飲み、お腹も空いていたので肉も食べた。「憎しみ」をトリガーにして「鬼」になり「人間」であるキロを追い掛け回していたアイムはいつの間にか彼を「人ではないもの」に変えてしまった。それはつまり「人」とは動物の上に人の皮をかぶっただけの動物だという事、生物は生き残ることにかけては他のあらゆる感情よりも勝り、そして恐ろしいという事をシュミレートしてくれた映画だった。あまりにリアルなので映画が放映された後、撮影は人道的だったのかどうか警察が介入までしてきたと言われている。
その映画になぞるのなら俺はキロで、憎しみではなく歪んだ愛情で俺に向かってきているストーカーはアイムか。
結局、キロは幸せになれたのか?映画はそこで終わるから観客にはそれはわからない。しかし…殺されかけ、相手を返り討ちにした人間は、死なないにしても傷ついたことには変わりないのか?その怒りの矛先はどこへ向ければいいのだろうか…。