97 便利屋・栗原 1

栗原ちなつという人は以前『彼女』が初音ミンクのアンドロイドの電脳へと侵入したあたりからの付き合いであって、少し前は裁判所で弁護士のフリを演じて協力もしてくれるぐらいの仲ではあるけども、じつは俺はちょくちょくその栗原ちなつこと、チナツさんとは連絡を取り合っていたりする。近況のお知らせみたいな事。
この人は主に何をする人なのか?
「何」というのはどういう目的を持ってどういう仕事をしてどういう事について喜びを感じているのかだけども…最近分かり始めてきた。
最初は初音ミンクの電脳をハッキングしたもんだからハッカーか何かだと思っていたわけだ。しかし、ハッカーだとしたら初音ミンクの電脳をハッキングすることはどこか遠くの安全な場所からやっているわけで、まさか初音ミンクの電脳に自らのデータを置いて、元居た場所(ネット)は閉鎖させてしまっているとは思わなかった。
つまり、彼女の話では、あの時の彼女の自我は初音ミンクの電脳の中に存在したことになる。そして別のアンドロイドへとデータを転送したけども、それはつまり、彼女の自我をその別のアンドロイドへと転送したことになるわけで、今の彼女の本体は恐ろしいことに「風俗用アンドロイドの電脳」になってしまっている。
人の魂はどこにあるのか理論を根本から覆している。
ある特定の人達に言わせればきっと彼女はタダのデータの塊であって魂ではない、という結論にいたってしまい、それこそ、その不安定な状態の「存在」を消してしまおうと彼等や一部の怪しげな宗教団体が動き出しそうな気もする。
そんなあやふやな存在であるチナツさんが最も好きな事は…オープンテラスがあるカフェでテーブル席に腰を下ろしてコーヒーを飲みながら道行く人々を見つめる。あえて本人はその行為に名前を付けなかったがその奇妙な行為は古い時代から既に存在する趣味のカテゴリーである。いわゆる「人間観察」っていうやつだった。
人が好きなのだろう。ただ、人が好きの「好き」は多分、LikeでもLoveでもなくてInterestだと思う。好奇心なのだ。この日本、いや、世界中に住んでいる人々の生活、人生…などなどをまるで映画でも楽しむかのように観て、そして時には自分が参加するのだ。
だから俺のような人嫌いで常にボッチを好む人間からすると、聞けばとんでもない事で椅子から転げ落ちて腰を強打した挙句驚きのあまり少し小便をチビったりするほどに驚くような事があるのだ。
金を払うことすらあるのだ。
そういう人を観察する事にいたっては金を払う事すら厭わない。アホかと思った。わざわざ金を払ってまでも人に会うとか俺からすれば便所の便器を舐めるために金を払うようなものだ。いや、便所の便器を舐めるっていうのはさすがに例えが悪すぎるか。男ならわざわざブスで性格が悪い女と結婚をするようなものだし、女であるのなら不細工で甲斐性なしの男に何故か汚い事をして働いた金を貢ぐようなものだ。
その栗原ちなつこと、チナツさんは突然俺に連絡をしてきて、
『じつは便利屋を始めたのだ』
と言い出す。
どうやらそんなチナツさんでも金に困る事があるらしい。
生活に困る程ではないらしいが、彼女の趣味を楽しむ為の金が不足しているという。一体どんだけそのくだらない人間観察にお金を投じているのだろうか。
しかも便利屋って言ってもペットの猫がいなくなったから探して欲しいとか電車に忘れた愛用の傘を持ってきて欲しいとか、家に白蟻が出たから退治して欲しいとか、そういう本来の便利屋ではない。
借金をして逃げ出した奴を見つけだして欲しいとか、不正にマネーロンダリングした金を取り戻して欲しいとか、シマに他の組の連中が来たから示しをつけて欲しいとかそういう類の事だ。
しかし…そういう話を電脳通信ごしに聞いていると、じつは便利屋という家業がこのチナツさんという女性にはぴったりなのじゃないかと、ふと思ったのだ。本人もむしろ、楽しいことをしてお金まで貰えるなんて申し訳ない的な事まで言う始末だし。そりゃヤクザの業界では人と人の嫌になるような摩擦が垣間見れるからなぁ。もう摩擦ってレベルじゃなくて戦争だよ戦争。汚いやり取りが日々の精神的なストレスを貯めこませるんだろうな。気にならないのかな?
そんなやり取りをしているうちに、ふと、あるキーワードが俺の耳に入ったのだ。俺は思わず聞き返してしまった。
『いまなんて?』
『うむ、以前貴様がスカーレットがどうのこうのと、』
『スカーレット?見つけたの?』
『あぁ。どうやら今回の仕事は依頼元がそのスカーレットなる人物からのようなのだ。まだ詳しい事は調査中だが…』
思わぬところから、いや、思ったようなところから尻尾が出てきた。そうだよ、そりゃそうだ。チナツさんは裏業界の人間とのやり取りをしているわけだ。ヤクザとなれば左翼団体にも繋がりがあったり、スカーレットに繋がっている可能性も否定出来ないじゃないか。