90 社畜達の沈黙 10

陪審員席にはアンドロイドが座らせられている。
総数は10体のアンドロイド。それらはネット上で接続された100名の陪審員の視界でもあり、そして彼等の意見を表情などで代弁するものになっている。陪審員が法廷に座るのはデジタル化されるずっと以前からの習わしなので今でもそうなのだ。
そして今、それらのアンドロイドは明らかに不快感をあらわにしたような表情で高坂を睨んでいた。
「いじめっ子」である高坂社畜を許さないという目で。
日本では普段の生活ではお互いの感情は予め伏せておいて円滑なコミュニケーションを取ろうとする。
それを『空気』だと呼ぶ人間もいる。
普段からこの空気を読む能力のある人間は周囲の空気に任せて動きやすい。それは「コミュニケーション能力が豊かに備わっている」と誤解されやすいが、その実は物事の本質を欠いた自分の頭で考えない人間を作り出す装置…。今の高坂はまさにそうだった。
その場の雰囲気に支配され、人の頭を踏みつけて靴を舐めさせるというような酷い行為を周囲の空気に流されて「普通の事」だと勝手に解釈していた。彼にとって、教育で部下の頭を踏む事は至って普通の事なのだ。だが、ネットではそれは許されない行為だった。
<おい、誰かこの屑を死刑にしろよ>
<判決は死刑だな>
<社員の教育なら何でも許されるのか?>
俺とマコトには電脳でこれらのスレッドの様子が流れて把握できる、が、高坂にはそれは出来ない。あのアンドロイド達の冷たい視線の裏でこのような罵詈雑言を放っているとは思いもよらないだろう。
『キミカちゃん…いけそうだね』
とマコトからの電脳通信。
雰囲気的には行けそうだ、だけど…。
『まだダメだよ。高坂社畜が罰せられても意味がない。レイテックが損害賠償を社員に払わなきゃ、勝利じゃないんだ』
『そ、そうだったね…』
いよいよ、大本命の参考人が来る。
ざわめく会場。
数名の刑務所からやってきた看守に付き添われて現れたのは『ハンニバル』さんだった。身体を固定され口の周りに特殊なマスクをさせられどこぞの動物園から猛獣でも連れてきたかのような雰囲気。
チナツさんが彼の前に立つ。
「藩丹原。貴様は何故、刑務所に入った。今一度それを聞こう」
「私が何故刑務所に入ったか…それは生活が苦しかったからだ。生きるためだ。この国では真面目に働いている人間よりも罪を犯した人間のほうが生活が保証される」
ざわめく法廷。
「静粛に!静粛に!!」
裁判長が叫ぶ。
「では、理由ではなく『方法』を聞こうか…藩丹原社畜よ」
「あの奴隷商人の耳を齧ってやった」
そう言ってニヤニヤしながらハンニバルさんは奴隷商人…つまりレイテック代表取締役社長を見つめた。
そういう事をされると普通の人間なら興奮してキレるだろうな。ほら、案の定、レイテックの社長さんはキレた。
そして狂ったように怒鳴り散らすのだ。
「なぜその屑を肥溜めから出した?!この精神異常者!!貴様がこの法廷にいるのが何かの間違いだ!この屑の発言が裁判で採用されると思うな!!こんな茶番はさっさと終わらせろ!」
本性むき出しで叫ぶ社長。
チナツさんは次の行動として、とある資料をホログラムディスプレイに表示させていた。
それは『給与明細』と『手書きの勤務表』だった。
その資料を見せながらチナツさんは説明する。
「藩丹原社畜、この資料は何かな?」
「手書きのほうは、私が密かに記入していた勤務表だ。会社のデジタル化された勤務管理システムに入力されたデータではない。そして給与明細は会社から提供されたものだ」
チナツさんはホログラムのマーカーを使って、とある箇所をマーキングする。色が付けられた場所は給与明細の過勤務時間と手書きの勤務表の過勤務時間だ。そして、
「給与明細と手書きの勤務表で過勤務時間が異なるようだが?」
「それは銭ゲバのクソ社長がちょろまかした分だな」
そこまで言って間に口を挟むのは相手側弁護人、神林。
「意義あり!その手書きの勤務表は虚偽の記載がされている可能性があります!!」と、やっぱり言いやがった。
陪審員の反応はどうかな…。
<なんだこの汚い字で書かれた勤務表は>
<こういう手口で金をもらおうとしてるんじゃね?>
<在日が。やりたい放題だな>
<本物かどうかは厳しいな…まだ証拠が乏しい>
だが、チナツさんがここで引き下がるわけがない。この程度の小さな証拠だけで俺達が喧嘩売るってナメて貰っちゃぁ困る。
次にチナツさんが表示したのは、とあるカメラの映像だ。
防犯カメラみたいな感じだ。
そこに映っているのは全部ハンニバルさん。
ハンニバルさんがまだレイテックに在籍中、彼が映っている箇所だけを捉えている防犯カメラの映像。
それはただの防犯カメラの映像ではある、だけど、被告であるレイテック代表取締役社長やその近くに座っていた神林はその映像を見て大慌てだ。今までにない取り乱しっぷりだ。
「これは藩丹原社畜がレイテックに勤めていた間、彼が映っている防犯カメラの映像だけを収めたものだ。そして、これらの防犯カメラは会社のビルの出入り口に設置してあるもの。下に表示されている日時はビデオ記録された時のもの。この時刻を退勤・出勤の時刻とし彼が記載している手描きの勤務表の退勤・出勤時刻と照らしあわせた結果、全てが一致した。つまり、会社の勤務管理システムに登録されている出勤・退勤時刻が虚偽である事を意味している」
「全て調べただと!!そんな馬鹿な!!」
うへぇえ…やっぱりお馴染みの反応をするレイテック社長。
しかしザマァだね!勝利確定…ククク…。
でも気になるな…向こうの神林弁護人がレイテック社長に耳打ちしている。そして落ち着かせようとしているのだ。何か秘策があるのか?まだ隠し玉があるのか?
陪審員の反応を見てもこりゃかなり確定っぽいんだけど。
今度はハンニバルさんに質問するのは被告の弁護人、神林だ。
ホログラムに表示されている資料は見覚えがない。これが秘策なのか?チナツさんもそれを見て怪訝な顔をしている。
「藩丹原さん。これはあなたが入社時に会社と交わした契約の一つです。見覚えはありますか?」
契約書?なんだ?
「見覚えはない」
「見覚えがあるかないか、それはどうでもいいことなのですが…何故ならここにあなたの判子が押してあります」
「それは会社の判子だろうが」
「ですが契約としては成立しています。法的に」
「この契約書がなんだというのだ?」
「これはあなたが『技術者としての育成研修』に参加する旨の契約書です。あなたは入社してから毎週日曜日、『技術者としての育成研修』に参加されていましたね?」
「会社が強制的に参加させていたものだ!」
「いえ。参加は自由でした。そして参加費用は給与から自動引き落としとなっております。『技術者としての育成研修』参加申し込み及び、給与からの自動引き落とし承認の契約書がこれです」
「そんな馬鹿な!!ふざけるな!強制的に参加させられた上に、参加費用を給与から差し引いただと?!それで残業代はチャラになっているなどと都合のいい言い訳をするんじゃないだろうな!?」
おいおいおいおい!!
どう考えても辻褄合わないだろう!
残業代は月々で固定じゃないんだから仮にそうだとしても未払い分があるはずだ。それが全部基本給だけになるように調整されてるのか?小学生でもおかしいことに気づくレベルだぞ!
『キミカちゃん…まずいよ』
マコトからの電脳通信。
『いくら何でもこれが証拠としてあげれるはずがないよ』
『ネット見てみて』
<本人が契約している研修費用として引かれているなら仕方ないじゃん。なんでそこが問題になるの?>
<確かにやり方は汚いけど騙されたほうも悪いんじゃない?>
<あぁ〜こういう手段があるのか…>
<いや、明らかに会社側の違法行為だろこれ>
意見が割れてる。
うーん…うーん…。まずいぞ。
しかし、その時、今まで相手側の弁護人に(マトモな)意義を申し立てなかったチナツさんが初めて発言した。
「一言いいか」
「栗原弁護人」
「会社で扱う技術に関する教育を『会社』が行う場合、そこで社員との間で金銭のやりとりが存在してはならない…という法律がある。まぁ、レイテック代表取締役社長が社員から金を研修費としてもらうようなヘマはしていないだろうが…誰かは知らんが、『研修員』と『レイテック代表取締役社長』の間で金銭的なやり取りがあった場合、法に引っかかる事は理解しておられるな?」
そうだったのか…っていうか、法律の知識詳しいなこの人。
しかしそれにはレイテック社長は答えない。
「知っていますが…証拠は?」
あっさりと弁護人の神林が代わりに返してきた。
押し黙るチナツさん。
証拠は…ないのか。
想定外か…。
『さすがにここまでは洗っていなかったな…』
突然電脳通信が俺の脳に飛び込んでくる。チナツさんだ。
『洗えないの?その…今からでも』
マネーロンダリングをしていると思われるからな。そう簡単には証拠を貰えそうにはない。今調べているところだが…』
すっげぇ…裁判の最中に相手に不利な証拠を探してるぞこの人!