90 社畜達の沈黙 8

もう3度目になる。
ここに足を運ぶのは。
俺とマコト、そして小森義隆さんの3名は再び刑務所に来ていた。
看守は前回俺達を案内した奴だった。
そして案の定、「またか」とでも言いたそうな顔で俺とマコトと小森さんを案内する。「ハンニバル」さんの元へと。
刺すような冷たい空気が支配している刑務所の廊下を看守の鳴らす鍵の音だけがやたらと大きく響いていた。案内されたのは以前と同じ、鉄格子の中に鉄格子があるという厳重な警備がされている場所。
その奥の檻の中にはあの時と同じようにハンニバルさんが小さな椅子に座って俺達を見ていた。俺達が来るのを事前に知っていたかのように落ち着いた雰囲気を出しながら。そして言う。
「ようこそ、ミス・キミカ、ミス・マコト…そして…」
もう一人が誰か分かった時、彼の顔色は変わった。
「小森…」
「藩丹原さん」
お互いが様々な思いが込められた複雑な表情をしていた。
「レイテックと、戦います。協力してください」
力強く一言一言を言い切る小森さん。
そして全てを受け止めるようにハンニバルさんは言った。
「待っていたよ。この時を」
まるで自分にとってとても懐かしい「誰か」を見るような顔でハンニバルさんは言った。
そう。いよいよだ。
俺とマコトはこんなところまで来てしまった。後々考えれば「一体何をやってたんだ?」と自問自答してしまうかもしれない。しかし俺もマコトも何一つ、今、この瞬間に何ら疑問を抱かなかった。
誰かが言った。
『戦いに勝ったものが正義であり、ルールだ』と。
そしてこの言葉を聞いた大抵の正義をかざしている弱々しくちっぽけな『誰か』は挫折して屈服して、世間は何一つ正しい方向へは変えられないと諦めるだろう。
確かに戦いに勝ったものが正義だ。
弱い者が吠えたところで何も変えれない。
俺はそれも理解している。
だけど、何より大切なのは、まず「戦う」事ではないか?
負ける事を恐れて、体(てい)の良い言い訳として『戦いに勝ったものが正義なのだ、俺は賢く生きる。例えそれが悪だとしても』と自分の中にある正義を踏みにじることが大人なのか?そして彼らは後ろめたさの中で日陰を探しながらコソコソと生きていくのか?
弱くてちっぽけな『誰か』はそれで満足かもしれない。
でも俺は嫌だ。
ハンニバルさんや小森さんは戦う事を決めた。彼らが勝つことが俺の幸せであり、彼らが負けることが俺の不幸だ。こんなちっぽけな正義を嘲笑うのなら、それはかまわないさ。
でも一言、言わせてもらうと、「俺は勝ちに行く」。例えそれが象の鼻をネズミが齧るようなものだとしても、「俺は勝ちに行く」
戦いに勝ったものが正義だと?ならば、勝ち負けもまだわからない今は、そんな言葉はただの結果論だ。
俺は俺の正義を信じて彼らをサポートするまでだよ。
さて…肝心の裁判の手続きについて。
俺はこれまでの段取りとして全ての手続をチナツさんに頼んだ。
裁判の手続き、重要参考人としてハンニバルさんを呼ぶという手続き…それらの俺の要求を心地よく受け取ってくれた。それには感謝もしているし、まず驚いている。これほどまでの凄まじいハッキング能力を有していたなんて…っていうのもそうだけど、「弁護士」として誰が参加するのかっていうところでチナツさんがその役を心地よく受けてくれたからだ。
『ふん、なかなか面白そうな事をしているじゃないか』
という一言で弁護士役を買って出てくれた。裁判所へ行く途中にも俺とチナツさんは電脳通信でやり取りをしていた。どうも彼女は最初っから俺達が何をするのか期待していたらしい。
『どうしてそこまでしてくれるの?借りを返すとか?』
『まぁそれもある。それ以上に面白いじゃないか』
『面白い…かなぁ…』
『飼いならされた羊達が沈黙を破り狼へと変貌する…。私はこの目にその瞬間を刻むことが出来るのだ』
『チナツさん…真面目に弁護してよね?本気で戦うつもりなんだからさ…その…「羊」達はさ』
『当たり前だ。彼らが本気なら私も本気を出す。だから、手加減はしない。途中でやり過ぎだからと止めないで欲しい』
『そ、そう?じゃあ止めない。まぁ、自分も普通の人よりも無茶するほうだからその点なら大丈夫だよ。ヤリ過ぎても止めない』
話が終わる頃に俺達の乗ったタクシーは裁判所の前に到着した。
裁判所の前ではいつかみたチナツさんがスーツ姿で待っていた。
「あの人がチナツさんかぁ…結構美人な人だね」とマコト。
そりゃそうだよ、チナツさんは風俗関係の均整が整ったアンドロイドのモデルを利用しているだけだからさ。あの中身は電脳だけの人間なんだよね。本体は一体どこにいるのやら。
「打ち合わせどおりにやろう。とりあえずは」
「と、とりあえずは??」
何か企んでるのかなぁぁ?
勘弁してよね…ごちゃごちゃ混ぜ繰り回すのは!
「それから、キミカ、マコト。貴様等はネットで陪審員の動きを観察していてくれ。彼等の意見にあわせてこちらも手を変える」
「自分、初めてなんだけどやっぱりそうなんだ」
そうなのだ。
陪審員というのは判決を決める連中で、ネット上で市民IDでランダムに選出された100人を意味する。陪審員制度というのはその100人が多数決で判決を決める制度だ。だが実際は裁判に興味のある人間全てはその様子をウェブカメラで見ていて、彼等もコメントを残すわけだから陪審員にもそれは影響してくる。
人数が多ければ多いほど意見は世間一般に非常に近くなる。そういう意味では他国の陪審員制度に比べると判決はとても民意に沿ったものになるけども、一方では市民の興味が薄い裁判は意見がブレる。
例えば交通事故の裁判とかになると「そんなものは保険会社同士で話をすればいいのに」的な意味を込めて喧嘩両成敗なっちゃう結末も結構知ってる。実際、交通事故でお互いがゴネるパターンはどちらも「陪審員」に取ってみれば社会的にウザい連中なわけだ。
俺が今回、気にしているのは訴えを起こす社畜さん達は外国人と日本人のハーフという事だ。ネットでは総じて保守が強いからハーフという条件はかなりの不安要素だ…。
俺とマコトは弁護士の「チナツ」さんのお手伝いという事で紹介され、裁判長の部屋に案内された。
裁判長(実際には取りまとめしかしない)との挨拶もそこそこにしてすぐに相手の弁護士とのご対面となった。
「神林緋乃(かみばやし・ひの)です。よろしく」
「栗原ちなつだ。よろしく」
チナツさんと神林と名乗る女弁護士が握手する。
『随分と金を持っているらしいな』
『どういうこと?』
『産業系弁護士でも腕の立つ奴を出してきた。この女は以前、秋野の水銀漏れ事故裁判でも遺族を黙らせた経緯もある』
さすが…チナツさん。握手した瞬間に既にネットで相手の事を調べ終わってる…。ある意味そこに賭ける意味もあるかもしれない。チナツさんの情報収集能力に。
既に準備書面は一式裁判所に提出されている為、形式上の口頭弁論を行うだけだ。被告であるレイテックは既に争う気満々だからいかにして陪審員の意見を左右出来る証拠を提出出来るかが鍵になる。
そしていよいよ、俺達は法定へと向かった。
まず飛び込んできたのは傍聴席に座る連中。レイテックの幹部やらあの下っ端のスーツ組もいる。
社畜達の為に小森さんが戦ってくれてるっていうのに、社畜のお仲間達がなんでレイテック側にいるんだと俺はまずそこが疑問だったが、奴隷の様に連れてこられたのかもしれないな。
被告席にはレイテックのクソ社長がどっしりと腰を据えている。そして時折、小森さんのほうを睨んでくる。これは威嚇か?
「小森さん。恐れてはダメです」
俺は小森さんに耳打ちする。
「は、はい…」
「あなたは間違ってない。だから今ここで戦ってる」
裁判が始まった。
まずは口頭弁論。
どちらも代理として弁護士がそれを行う。原告である小森さんの意見は細かく言えば多いが、大まかには以下のとおり。
・レイテックには未払いの時間外労働賃金がある
・法に違反する非人道的な労働を強いられた
・未払いの時間外労働賃金を請求する
・非人道的な扱いを受けた賠償を要求する
・これは原告である小森だけでなく、現在、またはこれまでレイテックで働いていて不当な扱いを受けた全ての人々に行う事を要求
これに対して被告側の口頭弁論として。
・未払いの時間外労働賃金は存在しない
・法に違反する非人道的な労働は強いていない
つまり、こっちが言ってることは全部嘘っぱちだと突っぱねて来やがった。
俺はさっそくaiPhoneと電脳通信して、それをマコトにも共有させた。リアルタイムで某巨大掲示板の傍聴席スレでこの裁判の様子を眺めていたのだ。…ちなみに、このスレ名を最初に見た時に既に俺は負けるんじゃないかって怯えてしまった事は言うまでもない。
スレ名は…、
「【企業】在日が何かホザいているようです【裁判】」
おいおいおい…最初っからこれかよ。意見を聞くきもないのかよ?っていうか、このスレ、絶対被告側の誰かが立てたんだろ?
マコトもコレをみてから深いため息を付いた。
「はぁ…」
「ま、まぁ、日本の中でもトップのクズが集まる掲示板だからスレッドタイトルはこんな感じになるのは仕方ないよ。まぁ…中身は良い人…のはず…だから大丈夫」
と、言いながら俺はスレッドを開いた。
謝罪と賠償を要求するニダ!!>
うわぁ…。最初っから偏見まみれかよ。
<未払いの残業代は無いって言ってんじゃん。もう終わってた>
<いいからもう国に帰れ>
<在日?ハーフ?>
<↑調べたらハーフらしい>
<非人道的って、それわかってて入社したんじゃないの?>
保守色濃いな…こりゃ難しいぞ。