29 如月流心眼道と金剛流居合術 9

「飲み込みが早いな」
毎日のように剣道場に通い、アスマの教える居合術を体得するのを見てのアスマの評価だった。
俺には武道の経験はない。スポーツの経験も実は無くて、この女の身体になって高校に通い始めてから初めてスポーツや武道をしたことになる。何かのスポーツを過去やっていた人は新たにスポーツを学ぶときに過去の経験に当てはめてから学ぶようにするという話を聞いたことがある。同じスポーツを引き続き学ぶのなら尚更だ。そんな風に、過去に何かをやっていた人に対して教えるときには過去の経験が逆に邪魔をして教えにくくなるという。経験だけならいいがプライドであったりもする。俺は頭が空っぽの状態でアスマの教えを得ているからスムーズに体得出来るという事なのかな。
「君は君に対して暴力を振るう人を想定してそれぞれのフォームを体得しているね。そんな風に実戦を想定している人には僕も教えやすいよ。『よくわからないけどこのフォームを身体に叩き込んでおけばいい』と思う人と『今までこんな攻撃を受けていたから返しはこうすればいい』と思って学ぶ人ではやる気も、習得しやすさも、習得してからの伸びも違う」
まぁ、俺の場合は生きるか死ぬかだしね…。
「まるで前提が生きるか死ぬかという感じだね」
まるで俺の心を読んだ様にアスマが言う。
「生きるか死ぬかという気持ちにはなった事がありますね」
「普通の人はそれがきっかけになる。追い詰められれば人は強くなる。さらにその上に昇るには、自分を磨くことを生きる事そのものに当てはめる必要があるだろうね。自分を磨く事とは自分自身を超える事。ただし武道ではそれが難しい」
「そうなんですか?」
「武道とは常に相手が存在して成り立つ。戦う相手が居ない状態で強くなるのは難しい。せいぜいフォームを覚えるぐらいだからね、出来る事と言えば。戦いの中で初めて学ぶこととのほうが多い。だから本当に強い人というのは戦う相手がどんなに弱い人間でも、自分が強い事を満足もせず、自慢もせず、哀れみも、情けも与えない。そこから何かを学ぼうとする。そして全力で相手を打ちのめす。まぁ、普通の人がそんな域に達する事なんてないよ。君は君を傷つけようとする相手に勝つことを考えればいい」
俺を傷つけようとする者に勝つ…それじゃ俺はいつも後手ってことじゃないか。戦って相手が強すぎて、手加減してこなかったら生きるか死ぬかの状況なんだよ。やってみてダメでしたは一番俺にとって辛いパターンだ。アスマの言う、本当に強い人である事が俺に必要なんだ。
「アスマさんは、本当に強い人を見たことがあるんですか?」
そう俺が質問するとアスマは今まで朗らかに話していた顔を突然緊張させた。俺を睨んでいた。ただ、怒っているという表情でもなく、俺が想定外の鋭い質問をしたのを驚いたような表情だ。
「ああ。いるよ。僕の師匠だ」
「なるほど…そんな強いお師匠さんだからアスマさんも強いんですね」
「いや、弱いよ。僕は。君と戦っても勝てないだろう」
それは…まぁ、足腰が弱そうではあるけどさ…。
アスマは立って話すのが辛くなったのだろう。腰をゆっくりと下ろした。松葉杖も稽古場の畳の上に置く。そして深く息を吐きながら、
「君よりも力量がある人間が戦う相手で、そして『本当に強い人』であるのなら、僕から出来る助言は『逃げる』という事だよ。相手は君がどんなに自分よりも弱くても全力で突き進んでくる。それは十分に危険な事だ。君が強くなろうとするのなら君よりも強い人が居たとして、それが十分に人間らしいものであることが条件だろうね。自惚れしたり、哀れんできたり、怒りに任せてきたり、そういう人間は実は弱い」
自惚れもせず、哀れも、情けも与えない。無感情で相手を潰そうとする人間…。聞けば聞くほど俺の頭の中には、日本海での戦闘で出くわした「イチ」と呼ばれている侍野郎がよぎった。